SC-PM870SD、または単なる憂さばらし

 世の中は思い通りにいかないもんだ。
 そうだろ兄弟。
 少し前だが、俺はPanasonicのミニコンポ、SC-PM870SDを導入したわけさ。
 当然、付属のショボいスピーカーなんぞ使っちゃられねえ。
 同じショボくともKENWOOD LS-9070ES-Mのほうが芯が通ってる。
 てわけで、コンポの外部出力とアンプをつなごうとしたわけだが、どうしたわけかこの870SDにはRCAの外部出力端子なんぞ付いちゃいねえとくらあ。かといって光出力があるわけでもねえ。
 まったく途方に暮れちまったさ。
 仕方ねえからヘッドフォン端子からステレオミニプラグ→RCA2ピン変換プラグを使って、アンプにつないでいたのさ。
 ちなみに、この機種のスピーカー端子は↓こんな具合に「特別仕様」なんてイヤらしいことになってやがる。
 まったくケチくせえこったぜパナさんよ。
 しかし俺様は思った。ここにRCA端子をつなげば、そこからアンプにつなげるじゃねえのか?ってな。
 俺様はいいアイデアだと有頂天になったもんさ。
 さっそく秋葉原ラジオなんとかって横丁で屋台みたいな店からRCA端子の部品を買ってきたさ。
 スピーカーから、端子をぶった切った。
 で、そのスピーカー端子とRCA端子をつなぎ、ハンダで固定するってスンポーさ。
 そしてほどなく、自家製のパーツが完成した。
 
 で、どうしたって?
 そりゃその部品を使ってスピーカー端子とアンプをつないでみたさ。
 けどなあ・・・
 思ったような音が出やがらねえ。
 やたらドンシャリだし、音が割れてるし、なんかとにかく変な音しか出てこねえ。
 これだけ時間と手間をかけても、思い通りにいかねえこともある。
 むしろ世の中、そんなことばかりだ。
 例えば、好きな子に限ってメールなんか返してくれねえ。
 そんなもんだろ?兄弟。
 仕方ねえから、ヘッドフォン端子で無理やり自分を納得させたのさ。

最後通牒

 コンテストだ何だという日記を書きながら、俺は一方で、非常な窮地に陥っていたりもするのである。この前のシフトの際、入りの直後に上司に呼ばれ、ある一つの通告を受けた。僕の働くレストランでは、お客さまのオーダーを取ったり料理を提供したりといった給仕全般をするポジションがあるのだけど、そのポジションから「今後一切抜く」(俺は入れてもらえない)というのだ。瞬間、腹の奥の温度が3℃ほど下がった。悪いことをいくつか予期していたとはいえ、そのいくつかの中では最悪の手から一つ手前の通告だった。少しだけ足が震えた。

 … ( ̄□ ̄;

 ただ、二週間の猶予をもらうことができた。その猶予の期間中、俺はトレーナーの人についてもらい、チェックを受ける。そして出された課題をこなせるように努力する。最終日に最後の課題を出され、それがクリアできなければ今後一切、俺はそのポジションからは外されてしまうというのだ。もし本当にそうなってしまったら、俺は何のためにここにいるというのだろう。それだけは避けたい、という思いが強く心に湧いた。

 そして、午前と午後で、つきっきりのテストが始まった。とはいっても、俺はいつも通りにやるだけなのだけど。緊張感は最初だけはあったものの・・・・・・

 楽しい!!(・∀・)ギザ楽しすよ。このポジションに入れると、本当に幸せです。というか、普段は絶対にこんなに長い時間このポジションに入れられることはないので、ケガの功名というか、切迫したシチュエーションでもあるにも関わらず、すごく楽しい1日でした。疲れたでしょう?と言われても全く疲れてもいない。そして、与えられた3卓もふつうにこなすことができた。それ以上に、つきっきりでいてくれたHさんにいろいろと聞くことができて、今まで思っていたことが間違いだったと気づけたりできて、とても有意義な1日だった。

 とくに、この前の失敗の最大の原因でもあり、僕のこのポジションにおいての最大のネックだったドリンクとデザートの出し方について、まったくの思い込みがあったことが何点か判明し、これなら自分は行けるかもしれない、という手ごたえをつかむことができた1日だった。

 とはいえ、まだまだテストの期間はつづく。もしも僕の仲間でこの日記を読む人がいたら、なぜ俺にずっとトレーナーがついているのかという理由はこれなんだということを知ってもらえると混乱が少ないかもしれない。(笑

【ホスピタリティコンテスト2009】に向けて

 体調が悪い続いていた。先週の日曜からだから、もう一週間以上。思った以上に長引いたし、体力も少し落ちている気がする。それでも、土曜日の失敗などを、そのせいにする気は毛頭ない。ないのだけれど、上司と先輩に「体調が悪いか嫌なことがあったんじゃない?何となく雰囲気が暗いよ」と言われて驚いた。2人とも女性だった。月並みな言い方で恐縮だが、女ってすごい。

 来年1月に、またホスピタリティコンテストが開かれる。去年のチームリーダーだったTさんから僕は「お前は今年も出るんだからね」と言われていて、ずっとそのつもりになっていたのだけど、心の中にわだかまっていたほんの少しの暗い雲が時間が経つにつれてどんどん大きくなっていって、自分が本当にそれに出ていいのだろうかという気持ちがとても強くなっていった。

 少し脱線するのだけど、特に大きな組織では言えることだけれど「組織形態の基本は官僚制であり、その官僚制の足腰は現場レベルでの精確なルーチンワークの遂行である」(沼上幹組織戦略の考え方ちくま新書)という。そう考えるならば、現場レベルにおいてルーチンワークの遂行、オペレーションは第一義的なものであり、それが不十分な状態の自分にはそれ以上のことを考えることは本末転倒ではないのだろうかと、そういう思いがあった。

 そのことについて悩んでいることを知ったIさんが、僕にメールをくれた。「出たければ出なさい、決めるのは自分なのだから。けど、『出ない』ということで何かが変わるとは思えないでしょう?」 それを読んで、僕は出ることを決めた。自分は、オペレーションが不十分だろうが何だろうが、やっぱり正直な気持ちとしては出たいのだ。そしてそれが、紛れもなく自分がここで働いている理由なのだ。そのことに気づいて、Tさんに改めてチームメンバーに加えてもらえるよう頼んだ。

 土曜日の失敗はその後のことで、やっぱりちょっと迷ったりもしたけど、前の日記を書いたあとに、たくさんの人から、励ましやアドバイスをもらって、本当に嬉しかった。この場でお礼を言います。皆さんありがとう。おとついはトレーナーのKさんと一緒に帰って、2時間くらいずっと話をしていたのだけど、3卓でも、同時にドリンクとデザートが重なったらできないよ、と言われた。「だからそういう時は誰かに助けを求めなきゃいけない」と。

 人を頼ること、助けを求めること、手伝いを頼むこと、その大切さ、そういうことを多くの人から言われた。きっと自分に足りないのはその意識だ。みんなで仕事をしているということ。オペレーションの話だけではなく、ホスピタリティについても、自分ひとりがそれを行えばいいわけではないのだろう、きっと。だから今回、僕は「全体でのホスピタリティ」をテーマとして考えたいと思う。

信頼を裏切った

 きょうアルバイト先にて。

 自分の担当テーブルが四つになり、
ほぼ同じタイミングで飲物とデザートを用意することになった。

 その過程でつぶれてしまった。
時間がかかり過ぎるといって出て行ったお客さま。
そのことに動揺し、さらにミスを重ねた自分。

 後で、こう言われた。
お前を信じて、その担当につけてくれた人の信頼を、
お前は裏切ったんだ。と。

 確かに、そうだと思う。
けど思い返してみれば、きょうも喜んでくれたお客さまは何組もいたし、
自分としては悪い1日ではなかった。

 それでも、最後がそれでは悲しい。
あまりにも悲しい。

 誰にも会いたくなかったので、家に帰ってから、
ひたすら方法を考えていた。自分にできないはずはないのだ。

 そういえば、ちょっと前にある方法を実践して、
それが案外うまくいっていたのだが、少し前に上司に見つかってしまい、
封印されてしまった。

 きょうは、自分なりの方法を考えるまで眠れない。
せめて、俺はなりたい。
人の信頼に応えられる人間に。

いまさらの優生思想

レヴォリューション No.3 (角川文庫)

レヴォリューション No.3 (角川文庫)

という本を読んだのだけれど。

 話は変わるけど、インターネットの最大の功績は、個々人が車輪の再発明をしなくてよくなったことだ。たとえば、おとついの僕は「アンチエイジング」という言葉から連想して「オプティマルエイジング」という言葉を思いついた。それでブログの記事をひとつ書こうとすら思ったけど、ふとモノグサはよくないと考え直し、「オプティマル エイジング」でググるといーっぱい出て来た。どうやらアンチエイジングの概念の(本来は)基底をなす考え方であるらしい。ふーむなるほど。というわけで俺は何も書かないという行動を選択したわけだ。

 で、先述の本を読んで、「優生思想」というワードが頭に浮かんだ。今度はどうせ誰かがもう書いてるだろうから自分で書くつもりはなく、ネットで適当にググったのだが、どうやら俺が思うような記事は出てこない。ゆえに不本意ではあるが俺がいま記事を書いているというわけだ。まあそれも、調べ方が適当ではないともいえる。自分が書きたいことを書く大義作りのために、「調べても出てきませんでした」と言いたいことは、日常のブログレベルでも研究論文レベルでもありうるわけで、結局その点での行動バイアスがかかっている可能性を自分で否定できはしない。

 さてさて、というわけで、本の話に戻る。この書中においてオムニバスの一編目でドクター・モローという生物学教師が生徒達に、「君たち、世界を変えてみたくはないか?」と語りかける中心的なシーンがあって、そのあとのドクター・モローの話の中で、「優等は劣等の遺伝子と結びつきながら、バランスを保っていく。それが本当は自然界の理なんだよ」という発言があるが、遺伝子について優劣を主張するのは紛れもない優生思想である。それを契機として生徒たちが行動を開始するのであるが、果たしてこの流れに基づいている本小説はどうなんだろうか。このドクター・モローは自身が母親の胎内において広島で被爆したから子どもを作らない、という話もしている。

 いまどき、こんな本書いちゃいけません。

 この本を書いてる金城氏が、この本を面白がる人や社会そのものをすべて笑い飛ばす、という意図で書いているのならばまだ多少は支持できるのだが、残念ながら本書からはそのことを伺い知ることはできないのである。



いのちを考える―バイオエシックスのすすめ

いのちを考える―バイオエシックスのすすめ

少し前の本ですが、幅広く生命倫理(bioethics)ということを考えるのにお勧めの本です。ちなみに木村利人先生は、日本で初めてインフォームド・コンセントという用語を提唱した人です。

いろいろありましたがとりあえず、

 引越しも先月終わり、浦安市民になりました。

 引越して感じたこと。

  • どこに行くにせよ移動にかかる時間が少ないので、一日が長く使える。
  • マンションのある交差点でコンビニが3店舗もあるのでサービスが良い。
  • ラーメン屋がいっぱいある。
  • 駅周辺には店がいっぱいあるので、フラフラ出歩くようになった。

 いやー いいっすわー 都会って。

 まあそんなとこっす。

立地と空間〈上〉―経済地理学の基礎理論

立地と空間〈上〉―経済地理学の基礎理論

 移動のコスト(時間的・金銭的)が人間の生存戦略にとっていかに関わってくるかは、この本を読めばわかるかも。

これが正真正銘の田舎だ

 まあ私の住んでるのはS玉県のI間市というところなんですが。よく人には「いやあ田舎っすから(笑)」とか言ってるけど、おそらく東京都区内に住んでるような人だと、中には田舎といえば練馬のようなところを(練馬の人ごめんなさい、中にはですよ)想像するような輩がいるかもしれず。俺の住んでるアパートがどれだけ田舎かということをこの際ハッキリと示しておいたほうがいいのではないかと思うのです。

(Fig.1)

 この道はなんだと思いますか。俺のアパートへ帰る途中の道ですよ。ちなみに上のよくわからない蛍光灯のカサみたいなのには「武蔵野音楽大学」と書いてあります。左手にキャンパスがあるらしい。山を登っていくと。道の左手の下のほうにはドブと渓流の中間のような川がザアアアと流れてます。イヤなことがあった帰り道は激うつ必至です。

(Fig.2)

 道を進んでいくとアパートが見えてきます。というか、周りの住民からは一戸建てと思われてるかもしれません。俺の部屋は2階、1階は別の方がお住まいです。ちなみに、駐車場は当初大家が月極めで近所に貸すことを計画していたらしいですが、こんな駐車場誰も借りません。だって3mくらいの雑草が生えてたり、駐車場の5分の1が隣家からのツタによって覆われていたりしますから。ちなみにこの写真、左手は山でアパートの向こう側はガケです。

(Fig.3)

 2階への階段を登りきったところ。ガケだけあって、かなり埼玉平野が一望できます。さすがに川越までは見渡せませんけど。秩父の峰はむらさきの、風もみどりの武蔵野よ、って感じです。ってふつう知らねーよ埼玉県歌なんてよ。ちなみに最初、不動産の人が「いや〜ここはいいですよ、花火が窓から見えますから」なんてリップサービスくれてましたが、ほどなく微妙に花火が見えない方角であることが判明。花火のときは横手の山に登って眺めてました。

 ちなみに、朝起きてドアを開けるとき、一番初めにすることは、近くにスズメバチがいないか確認することです。わーおスリル☆ あと、部屋の中にコクワガタが入ってきたりといったイベントも起きて、まるで気分はセロ引きのゴーシュです。

 いやあ・・・この家ともあと3日でお別れかあ。千葉への引越しもカウントダウン開始。振り返れば、ちょっと寂しい・・・なんてことはまったくなく、むしろ一刻も早く出て行きてえ!! いやあよく5年間も住んでたな俺。有森裕子風にいえば、自分をほめてあげたいです。

  • 駅徒歩 8分
  • 間取り 2LDK
  • 専有面積 40平方m
  • 家賃 52,000円(管理費含)
  • 築年数 24年