影との戦い

 週三回の専門学校では, 同じコースのリピータということで他の受講生とは違う課題をもらっている。たとえば授業の前半にひとつのテーマに沿ってひとつプロットを書き上げ, 授業の後半ではある状況設定をもとにネーム(マンガの設計図のようなもの)を描き上げる。僕の場合, 話のタネを考え出すのは苦でもなんでもない。面白いかどうかは別として, いくらでも話を思いつくことができる。だから, 漫画家を目指しているのに話を考えるのが苦手, という人の気持ちがわからない。それならなぜ漫画家になりたいと思うのだろう?と考えてしまう。大きなお世話ではあるけど。

 「小川さんはなんで漫画家になりたいんですか?」と, 帰りの電車で一緒になった女の子から聞かれた。そこで答えたことと似たようなことをここで書くなら, 僕は漫画家になりたいと思ったことはない。表現者になりたい。かつて, 自分の中の怪物を飼いならすことができないと覚悟をしたとき, そう思った。確かに絵を描くのは小さいころからすごく得意だったし好きでもあったけど, それが順番どおりに漫画に結びついているかは疑問だ。ビジュアルな表現への憧れと, 自分の中にある思いを形にした言葉とのギャップに, 今はただ無力さを感じている。

 時間があるときには勝手にプロットを書いたりしているので, きょう, できたものを先生に見てもらった。いろいろと細かい部分の指摘がつづいたあと, このプロットは誰も救われない感じがするね, とひとこと言われた。確かに, 僕の創る物語は, どうしても救いのない世界になっていきがちだ。「その人が作る物語は, その人の根源的なものが出ますから」と先生は言った。小説家の栗本薫も, 小説を書くとは魂のストリップをするようなものだと言っている。僕は, 根源の部分では誰も救われない世界を望んでいるのだろうか?

 いくら自問をしてみても答えがでるはずもない。自分の心の内面は, ただ物語として自分の心の中から湧き出たものを通じてしか自ら知ることはできない。物語と向き合うことが, すなわち自らと向き合う行為だ。誰も救われない世界を僕は望んでいるのだろうか。自問ではなく, ただ言葉を噛みしめてみる。きっと, そうではないと思う。同時に, きっとそうなのだと思う。皆が幸せになることと同時に, 世界が滅びることを心に描いている, それが自分という人間の姿だ。

 自分の心の闇を暴かれるのが恐くて, 光の部分だけしか自分にはないと信じてきた。そのうち, 心の中の影の部分は, 僕自身によって「ないもの」にされつづけることに反逆し, 暴れだした。ずっと存在をなきものにされてきたその影は, ようやくいま, 僕の目の前に現れてきた。

 ル・グウィンのゲド戦記において, ゲドは, 旅の終わりに目の前に現れた影に向かって「ゲド!」と叫んだ。ゲドの影は, その名を与えられたことにより, ゲド本人と融合し, ゲド自身へ帰った。僕は自分の影が恐い。しかし, 劇場版エヴァンゲリオンのように, 救われない世界を救われない世界として書くことも, あるいはそこに光を望むことも, 結局最後は同じことなのだ。自分の影を引き受けることさえできるのなら。