早稲田 早稲田 早稲田

 3月25日、5年間の学部生活を終え、早稲田大学人間科学部を卒業しました。朝と昼の式には大阪から母が来てくれました。母に桜咲く早稲田大学キャンパスを見せることができて、せめての親孝行ができたんでしょうか。式では、みんな肩を組んで校歌を歌う・・・かと思いきや、意外とテンション低いヤツが多かったです。最後の早稲田大学校歌だろ!!

 そういえば、僕の知り合いが早稲田大学125周年に際してあまりにも鋭い日記を書いていました。その前に、なぜ125周年なんて中途半端な年数かというと、これは早稲田大学創始者大隈重信が、「人生125歳説」というのを唱えていたからで、それは、人はもともと125年生きるだけの寿命を持っているという説です。まあ根拠もクソもない話ですが、早稲田の数字といえば125であり、大隈講堂の高さも125尺らしいです。

 で、その人はこのように書いていました。早稲田の125周年は、早稲田の寿命の時である。早稲田は今、死につつあるのだ。伝統ある建物を壊してそびえつつある高層の建物は、すなわち早稲田の墓標であると。確かに早稲田は、いま急速に変わりつつあると思います。僕は知らないですが、かつて第一学生会館・第二学生会館があったころ、そこにはカオスの世界があったらしいです。今はサークルも新学生会館に集められ、カードキーで管理されるようになりました。今の早稲田はサラリーマン養成学校に堕したなんて揶揄もされますが、失われていく早稲田の一方で、やはり早稲田には早稲田にしかないものが残っていくのではないかと思います。それは一言で言えば、強烈な愛校心というものだと思います。

都の西北 早稲田の杜に 聳ゆる甍は 我らが母校
我らが日頃の 抱負を知るや 進取の精神 学の独立
現世を忘れぬ 久遠の理想 輝く我らの 行く手を見よや
早稲田 早稲田 早稲田 早稲田
早稲田 早稲田 早稲田


東西古今の 文化の潮 一つに渦巻く 大島国の
大なる使命を 担いて立てる 我らが行く手は 窮まり知らず
やがても久遠の 理想の陰は 遍く天下に 輝き布かん
早稲田 早稲田 早稲田 早稲田
早稲田 早稲田 早稲田


あれ見よかしこの 常葉の杜は 心の故郷 我らが母校
集まり散じて 人は変われど 仰ぐは同じき 理想の光
いざ声そろえて 空も轟に 我らが母校の 名をば称えん
早稲田 早稲田 早稲田 早稲田
早稲田 早稲田 早稲田

 たくさんの人と出会い、たくさんのことを学び、自分という人間の小ささを教えてくれた早稲田。感謝の思いでいっぱいです。言葉に尽くせない思いでいっぱいです。

 25日は、夕方からゼミの謝恩会と2次会、そして夜はサークルの連中とオールでカラオケに行きました。たぶん俺の一生で一番写真を撮られた日でもあると思います。僕は、4月から経研の科目履修生になるので、卒業という感じがしなくて、カメラは持ってなかったんですが。みんなとの一瞬は心という名のフィルムに写していますよ。

 卒業祝いのメールもたくさんもらいました。サークルのカラオケでは、思いがけなく寄せ書きをもらって、ビックリしました。これは嬉しかった。自分が寄せ書きをもらえるなんて思っていなかったので。このサークルがなければ、俺の大学生活は本当に乾燥したものになったと思います。

 そんな卒業式でした。
 でもでも。
 俺が所属していたのは「人間科学部」です。
 人間科学部のキャンパスは、所沢にあるのです。もちろん俺はサークルも授業も本部キャンパスである西早稲田であることが多かったので頻繁に本部キャンパスには来ていたのですが、でも自分にとってやっぱり特別なのは、所沢キャンパス。西武池袋線小手指駅で降りて、学バスで畑の中をガタゴト揺られて通ってましたよ。

 さらに厳密に言えば、俺が所属していたのは「人間科学部人間基礎科学科」であり、その人間基礎科学科は、学部再編に伴い廃止され、もう存在しません。でも僕は、この人間科学部人間基礎科学科という名前に強烈な愛着と誇りを持っています。人間とは何か。人間はどこへ行くのか。人間社会における幸福とは何か。そんな人間科学を僕は自分なりに今後の人生において追及し続けるつもりです。

 最後に、僕が大学でお世話になった全ての人に、ありがとう。本当にありがとう。
 そしてさらば、人間科学部よ。