"KY"こそが時代を創る

 "MK5"と言われてもそれがマジ切れる5秒前なのかマジで恋する5秒前なのかマジでわかりかねる現在の社会情勢において、今かろうじて命脈を保っている"KY"という語もその5秒後には"MK5"と同じく宇宙の石炭袋に消えていく運命なのであろうが、この語が空気を読めずに口にして恥をかく幾人かの貴い犠牲のもとに葬り去られるその一瞬前に、一言だけマジで残しておきたい。

 "KY"でも"AKY"でもどっちでもいいが、「空気を読む」ということが過剰に意識されすぎて、ただでさえ一億総対人恐怖なこの国はより一層息苦しい場所になっていきつつある。しかし、空気は読むだけのものじゃなくて、「変えるもの」「作り出すもの」ではないだろうか。ここで"KY"の偉大なる先人を紹介したいと思う。その人物とは。

ザ・キング・オブ・KY: ニコラウス・コペルニクス (1473-1543)

 中世ヨーロッパ、教会が絶大な権力を握っているこの時代において地動説(太陽中心説)を主張するなんざKYの極みじゃねーか。教会の支配する世界では、それが科学として正しいかどうかという以前に「その教理に適合しているか」ということが問題とされる。普通そこは空気を読んで、仮に地面の方が動いてると確信したとしても、死んだフリをするか、ぼかした言い方「〜という見方もあり得ないとは言い切れない」にするべきだ。この説が発表された瞬間、当時の教会関係者たちは一堂にこう感じたことだろう。

 「コイツ空気読んでねえ〜〜〜〜〜〜〜〜〜!!!!」

 「それでも地球は回っている」と言った(と一般にされているがそれを否定する説もある)ガリレオ・ガリレイ(1564-1642)の方がまだしも空気が読める男であったとは思われるが、その分地動説に関与する彼のインパクトは薄くなってしまったこともまた否めない。彼の方が幾度の異端審問や裁判を受けてるんだけどね。

 この文章の論理的(?)帰結はただひとつ。何かを変えるためには空気を読んでいるだけではダメで、空気を作り出さなければならない。それには、空気の読めないことがむしろ有利になる。"KY"こそが新しい時代を作る可能性を持つということだ。